Taro
Tsurumi
【エスニシティ・ナショナリズム論】 近年社会学を中心にエスニシティ・ナショナリズム(とりわけ後者)の議論が盛んに行われています。穴もまだ多く残っているものの、それらからエスニシティ・ナショナリズム現象を見るための基本的な視角を得ることができます。
<雑誌>Ethnic and Racial Studies, Nationalism and Ethnic Politics, Nations and Nationalism, Patterns of Prejudice, National Identities, Nationalities Papers, Ethnopolitics, International Migration Review, International Migration, Journal of Ethnic and Migration Studiesなどがあります。最初のものがエスニシティ・人種研究で最も伝統ある雑誌で社会学的側面が中心、2番目のものは1995年創刊の社会科学・政治学的な側面の強いもの、3番目も1995年創刊で、ナショナリズム理論家の1人A・D・スミスが編集長を務めるもの。4番目は人種主義や反ユダヤ主義が中心。5番目のものはアイデンティティの側面が中心。6番目は中東欧・ユーラシア・バルカン地域と理論に限定した、比較的老舗の雑誌です。7番目は、同じ学会から出ている地域を限らない民族政治に関する雑誌です。8番目以降は移民研究の代表的な雑誌です。残念ながら日本語でのこのテーマの学術誌はありませんが,『解放社会学研究』『移民研究年報』などが関連する学術誌と言えるでしょう。
<入門用>
1. Day, Graham and Andrew Thompson, Theorizing Nationalism, New York: Palgrave Macmillan, 2004
ナショナリズム理論を論点別にコンパクトに概説しています。
2. 吉野耕作「エスニシティとナショナリズムの社会理論」同『文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方』名古屋大学出版会,1997年
1.でも紹介されているナショナリズム論の(最も有名だがあまり有益でない)近代主義対永続主義の対立軸を基本に主要なナショナリズム理論を整理しています。これをより詳細に紹介したものとしては,Özkırımlı, Umut, Theories of Nationalism: A Critical Introduction, London: St. Martin’s Press, 2000があります。しかし,この対立図式は,永続主義の議論の意味のなさから,建設的な議論を阻害する対立図式だと思います(ウェブサイト管理者の修士論文第1章第1節参照)。なお,この永続主義(歴史主義)をいまだに主張し続ける「大御所」としてはアントニー・D・スミスがいますが,彼の著作は豊富な事例紹介とは裏腹に,理論的にはほとんど同じことを言っており,どれか1つを読めば事足ります。代表的なものは『ネイションとエスニシティ―歴史社会学的考察』名古屋大学出版会,1999年(原著1986年)です。
3. トーマス・H・エリクセン『エスニシティとナショナリズム―人類学的視点から』明石書店,2006年(原著2002年第2版)
エスニシティ理論についてはこちらが標準的な概説書です。
4. 大澤真幸編『ナショナリズム論の名著50』平凡社,2002年
題名のとおりナショナリズムに関する有名な本を50点を簡潔に紹介しています。社会学者を中心とした第一線の研究者が執筆を分担しており,紙幅の関係で煮詰まらない部分もありますが,それぞれ興味深く書かれています。基本的にはナショナリズム論・国家論に関するものです。
5. 内堀基光「民族論メモランダム」田辺繁治編『人類学的認識の冒険』同文舘出版、1989年.
「民族」という、国家と共同社会の中間範疇が、「名付け」と「名乗り」によって決まるとする理論的考察です。すべてのエスニシティ・ナショナリズム研究にとって出発点となる視点だと思いますし、社会学の基礎の一つにもなりえます。その応用としては、例えばマイノリティの場合、国家やマジョリティの側からの「名付け」が強く、この二つの均衡点はずいぶん押され気味なものとなる、と理解することが出ぎます。
6. Oliver Zimmer, Nationalism in Europe, 1890-1940, Basingstoke, Hampshire: Palgrave Macmillan, 2003.
スイス史の若手の専門家による上記時期のヨーロッパのナショナリズムの通史で、近年の理論的な視野を積極的に取り込んだ概説書です。最近日本語訳も岩波から出ました。ナショナリズムは、ナショナリストにおいて世界(少なくとも広域圏)が視野に納められ、そのような論法となっていること、また実際に似たような展開をしているように見えること、こうした点において理論的な切り方が意味を持つ一方で、実践においては生活や人生全体を取り込むことも多いものであることから、局所ごとの特性と切り離せない側面もあります。理論に行き過ぎず、特殊性に入り込みすぎずというブランコの真ん中に立つ姿勢が必要なわけですが、本書はそのような姿勢を持った概説書といえるでしょう。初学者を意識した文献の引用の仕方も入門書としてありがたいと思います。
7. 樋口直人「分野別研究動向(移民・エスニシティ・ナショナリズム)」『社会学評論』57(3)、2006.
かなりバッサリと当該分野の(特に大御所や中堅の)日本語で書かれた最近の研究を切っている回顧と展望記事です。一部「水準が低い」の一言で切られている研究もありますが、管見の限りでは、それなりに妥当な評価が書かれている部分も多いように思います。基本辛口なのですが、それゆえにこそ、各々の研究の何が本当に意義深いのかがよくわかり、また、どういうところにとどまっていてはダメなのかが明確になっています。そうした意味で、(むろん完璧な批評などなく、これもそうでしょうが)かなり公平かつ誠実な紹介だといえますし、入門としてもよいかもしれません。
8. 安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』光文社新書、2010.
在日コリアンとならんで日本のエスニシティで社会問題化しやすいのが外国人労働者の問題です。本書は、日本企業で労働する中国人「研修生」と日系ブラジル人に関する骨がありながら大変読みやすいルポです。「外国人」であるがゆえの立場の弱さと、「外国人であれば日本人より賃金や条件が低くて当然」とする発想のもと、それにつけこむ雇用者を、外国人労働者の視点から描いています。出身国である中国とブラジルにも行って取材しているため、彼らのリアリティが立体的に明らかになるところも特筆されます。比較的よく知られている日系人の話に対して、場合によっては人身売買に限りなく等しい「研修制度」が表に出にくい構造が浮き彫りになる点でも、完成度の高いルポだと思います。いずれにしても、エスニシティ論としてポイントとなるのは、ここに関わる雇用者が必ずしも「悪徳」というわけではなく、エスニシティを境に「リアリティの切断」が起こることです。
<その先>
1. 山本泰「マイノリティと社会の再生産」『社会学評論』第44巻3号,1993年
社会学の項目でも紹介しましたが,エスニシティの社会学的意味を考察する上でぜひ読まれるべき文献です。エスニシティは何か固有の本質的なものでもなく,かといって単に非科学的な,根拠のない幻想に基づく現象と一蹴することもできない,ある社会学的リアリティをもって存立しているということ,しかしだからといってある社会全体が種類の違いはともかく何らかのエスニシティのリアリティを感じているかというと,ある層ではエスニシティがあまりリアリティを持っておらず,問題はエスニシティ同士の対立だけでなくエスニシティと非エスニシティの対立でもあるということ,こうした様々な重要な視点を1つの事例を基に展開することにこの論文の大きな意義があります。入門用の項目の2.で挙げた歴史主義対近代主義の不毛な論争を乗り越える可能性の1つもここにあると思います。
2. Richard Jenkins, Rethinking Ethnicity: Arguments and Explorations, London: Sage, 1997
社会学の項目の<その先>の1の解題で紹介したジェンキンズが,同じ議論をエスニシティの問題に応用した議論(第5,6章など)が収録されているものです。全体としてのまとまりは必ずしもないのですが,internal-external dialectic of identificationの議論は,エスニック/ナショナル・アイデンティティに関する基本的視角として重要なものです。
3. 梶田孝道『国際社会学のパースペクティヴ―越境する文化・回帰する文化』東京大学出版会,1996年
日本の国際社会学の第一人者だった梶田氏が国際社会学を看板に掲げた最初の単著の研究書です。梶田氏は2006年5月29日に心不全で急逝されました。亡くなられる直前の週も授業をされていたそうで,59歳の若さでした。相当なご多忙の中で過労がたたったのではないかと思います。詳細は省きますが,自分にとっての大きな恩師の一人だと思っており,学術誌に投稿していた諸論文の掲載が正式決定され次第,最初にお会いいただき厳しく叱咤激励いただいた2003年夏以来のようやくの成果の1つとしてご連絡差し上げようと思っていただけにネットで訃報を知りかなりショックでした。日本でエスニシティ・ナショナリズム研究が活性化する上で非常に大きな存在であり,(きっといろいろと無理をされた中で出された)氏の数々の研究は日本のエスニシティ研究,国際社会学研究にとって,ぜひ読まれるべき古典だと思います。実例ばかりに終始するのではなく,かといって抽象的な話でごまかすこともない,「中範囲の理論」のお手本でもあるように思います。本書はやや古いですが,梶田氏の基本的な視点が散りばめられている本です。梶田氏の専門は基本的にはフランスを中心としたヨーロッパのエスニシティおよびいわゆる新しい社会運動研究ですが,日本の外国人問題についても造詣が深く,いくつか本や論文を出されており,それらも日本のそうした問題を考察する上で1つの指針を提供してくれます(その入門用としては『外国人労働者と日本』日本放送出版協会(NHKブックス),1994年がいいと思います)。今思えば,自分が学部1年のときに最初に買った研究書も本書だったのではないかと思います。社会学的視角は氏とは少なからず異なっていますが(いい悪いの問題ではなく,単に方法の問題です),研究者を目指す自分の第一歩が本書と梶田氏にあったのだと改めて思います(これは単なるお世辞ではなく,氏のあのときの叱咤激励がなければ間違いなくはるかに甘い考えで研究をしていました。ご多忙の中,他大の青過ぎた一学部生に惜しみなく時間を割いてくださったことに本当に感謝しています)。先生のご冥福をお祈りします。
4. Paula M. Pickering, "Generating social capital for bridging ethnic divisions in the Balkans Case studies of two Bosniak cities," Ethnic and Racial Studies, 29(1), 2006, pp. 79-103
民族紛争の議論と社会資本(ソーシャル・キャピタル)の議論をつないだ興味深い論文です。実証面でちょっと定義や測定基準などについて記述が不足している部分がありますが,ボスニアにおけるボシュニク人(ムスリム人)とクロアチア人,セルビア人などが,職場という第三の場を通じて,いわば無難な関係を築くことによって無難な(無理のない)信頼関係を醸成していくことが社会全体の民族融和の方向に向かうことを示唆しています。職場での経済学的な目的に向かって共同で取り組むという経験は主義や信条,習慣,エスニック・アイデンティティの多くを括弧に入れた上で最低限の信頼関係を作る上で有効だということです。こうしたいわば経済学的な媒介項によって異民族が社会学的に融和に向かう方向を示した研究としては,他に在日コリアンといわゆる日本人との関係についてやはりミクロな調査からそうした方向を示唆した谷富夫編『民族関係における結合と分離―社会的メカニズムを解明する』ミネルヴァ書房,2002年。分厚くて焦りますが,こうした理論的考察は結論部でなされています。
5. Robert Miles and Malcolm Brown, Racism, 2nd edn., London: Routledge, 2003
入門書といってもいいタイプの本ですが,「人種化」の議論など,著者の一人マイルズ独自の論点も入っているのでこちらに入れました。ヲーラーステインの「民族集団化」(ethnicization)の議論を援用して,ある集団を本質的な概念である人種概念でくくることを「人種化」(racialization)とマイルズは呼んでいます。ヲーラーステインの議論は,給与体系を差別化する口実として民族の違いを持ってくることをある集団の「民族集団化」と呼んでいます(この議論は彼の『史的システムとしての資本主義』に出てきます)。いずれも人種概念・範疇に関する極めて社会学的な視点です。
6. フレドリック・バルト「エスニック集団の境界」青柳まちこ編・監訳『「エスニック」とは何か―エスニシティ基本論文選』新泉社,1996年(原著1969年)
エスニシティ論のいわゆる境界主義の古典です。エスニック集団の内容は変化しているにもかかわらずその「境界」が変化していないことに注目し,エスニシティ研究はエスニックな「境界」に注目すべきであると論じ,以降の多くのエスニシティ研究の大前提を打ち出した論考です。
7. 関根政美『エスニシティの政治社会学―民族紛争の制度化のために―』名古屋大学出版会,1994年
前半はエスニシティについての比較的古典的な理論の整理です。人種主義について多くの頁を割き、またアメリカ社会学の人種関係研究の成果を多く扱っている点が類書のなかでの特徴です。後半は著者のフィールドであるオーストラリアの多文化主義を中心とした議論です。
8. Liah Greenfeld, Nationalism: Five Roads to Modernity, Cambridge: Harvard UP, 1992
ニーチェやマックス・シェーラーなどによる「ルサンチマン」(怨念)の概念を手がかりに,英仏露独米のナショナリズムを知識社会学的に分析しています。基本的な視点としては,勃興しだした階層が,自らの実力と身分が合っていないと考え,貴族層などの世襲の階層にルサンチマンを抱き,それに対抗するために,ある範囲の国民ないし民族がみな平等であるという「ネーション」概念を生み出した,などといったものです。そして,そうした平等概念を強いたナショナリズムこそが近代を作り出した,とする議論は,近代がナショナリズムを生んだといった議論とも異なる独自な視点です(これは社会学全体に対する挑戦的な視点でもあり,その視点をさらに発展させたものとして,氏は日本なども事例にした(基本的にはいわゆる近代の後発国に関する議論であり,近代に関する議論を180度転回させるというほどのものでもないのですが)The Spirit of Capitalism: Nationalism and Economic Growth , Harvard UP, 2001を上梓しています)。ナショナリズム研究ではこうした視点がこれまで不足してきたのですが(本書以降もまだ不足しています),本書はそうした意味では非常に刺激的です。
9. ルース・ベネディクト『人種主義―その批判的考察』名古屋大学出版会,1997年(原著1942年)
かつて日本人論でベストセラーになった『菊と刀』で有名なベネディクトが人種主義の起源を知識社会学的に考察したものです。植民地の歴史と人種主義の発達が深い関係にあることが分かるとともに,人間がいかにある視点から見ればとんでもないことを正当化するために体系的で一見高尚な知識を生産するかが分かります。
10. エリー・ケドゥーリー『ナショナリズム』学生社,2000年(原著第4版,1992年)
ナショナリズム論の古典のひとつ。カントをナショナリズムの源流の1つに位置づけている点で特異です。賛否両論ありますが,カントがナショナリストだったと言っているわけではもちろんなく,カントの意図せざる結果としてナショナリズムが生まれる方向付けをした,ということを言っています。基本的にはドイツ・ナショナリズムの分析からいわゆるナショナリズム後発地域の分析へと移りますが,シオニズムに関して言えば,かなり当たっているところがあると思います。
11. アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』岩波書店,2000年(原著1983年)
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』,エリック・ホブズボーム+テレンス・レンジャー『創られた伝統』と並ぶナショナリズム論の最重要古典です(偶然にもこの3著は同年(1983年)に出されました)。本書のタイトルはゲルナーに師事し,彼に反旗を翻したアントニー・D・スミスが立ち上げたNations and Nationalism誌のタイトルにそのままなっています(スミスの主著も1983年に出されています。このスミスの本はゲルナーがそれ以前に出した論文に対する対抗として出されています)。産業化の必要としての均質な国民といった機能主義的観点から西欧におけるナショナリズムないし国民の創出を論じています。ただ,翻訳は,岩波の本に多いように思うのですが,原書にはある文献表や索引が一切カットされており,使いやすさの面から難があります。
12. 福井憲彦「国民国家の形成」『岩波講座 現代社会学第24巻―民族・国家・エスニシティ』岩波書店,1996年
通例ナショナリズムの起源とされるフランス革命におけるネーションとその変遷については本論文が簡潔にバランスよく概観しています。
13. アイザィア・バーリン 「ロマン主義における意志の賛美―理想世界の神話に対する反乱」福田歓一他訳『バーリン選集4 理想の追求』岩波書店,1992年(原著1975)
著名な社会思想史家による,フランス革命と並んでナショナリズムの重要な起源とされるドイツ・ロマン主義とナショナリズムの関連を社会思想史的に論じた論考です。そこから浮かび上がるのは,フランス革命におけるナショナリズムとドイツ・ナショナリズムの特質が,その基盤において異なっているということです。この二分法を安易に行うことは近年批判されていますが,全く否定されるべき二分法でもないことは確かです。
14. ヤエル・タミール『リベラルなナショナリズムとは』夏目書房、2006年(原著1993年)
ナショナリズムを全否定するのではなくて、ナショナリズムの「いい部分」を評価し、「悪くならない」ナショナリズムを構築しようといった、必ずしも新しい議論ではないものの、体系的にかっちりとまとめられることがあまりなかったテーマを扱った本です。タミールは上記バーリンの弟子の1人で、バーリンのナショナリズム論やマイケル・ウォルツァーなどの共同体主義を融合し、規範的にリベラルなナショナリズムの可能性を示したものです。ナショナリズムを全否定するのが現実的には困難な中、「次善の策」を狙った路線だとも言えますが(ただ、彼女の書き方としては、仕方ないというよりは、人間社会にとってのナショナルなものの重要性を認識しようといった感じです)、では非「リベラル・ナショナリズム」が「リベラル・ナショナリズム」と根本的に違うのか否か、あまり変わらないならば、仮想敵として実在しない「悪いナショナリズム」を勝手につくり出しているだけなのではないか、むしろそれゆえに「リベラル・ナショナリズム」がナショナリズムであるゆえに依然として残す重大な問題に対して認識が鈍くなるのではないか、などの疑念は解消されていません。当然、何を持ってネーションとするかという昔から議論されてきた、リベラル・ナショナリズムにとっても根本的な問題は据え置きとなっています。なお、タミールはイスラエルの平和団体ピースナウの創設者の一人であるテルアビブ大学教授で、オルメルト内閣ではイスラエルの教育相を務めている人物です。
ただ、ナショナリストの世界観を知る手がかりとしては本書は大いに力を発揮すると思います。ナショナリズム全般の評判が悪くなって久しいですが、いろんなナショナリストがいるものの、偏見とは裏腹に、いい悪いは別にして、ちゃんとした信念を持ってナショナリズムを保持している人もたくさんいます。その人たちの中では、自らのナショナリズムはタミールが描く「悪い」ナショナリズムとは違うという自負があるようです。その自負がどのような論理で成り立っているのか。そういった意味で、本書もナショナリズムの必須文献の1つだと思います。
似たような議論をしたものとして、デイヴィッド・ミラー『ナショナリティについて』風行社,2007[1995]年があります。こちらはイギリスの著名な政治哲学者によるもので、よりナショナルなものの擁護という色の強いものです。
15. Rogers Brubaker, Nationalism Reframed: Nationhood and the National Question in the New Europe, Cambridge UP, 1996.
ナショナリズム論の重要な文献の1つと言える本です。基本的な視角としては、ネーションが近代の産物なのか、古来からのものなのか、といったことよりも、実際に「ネーション」という政治的・社会的な重要性を持つ範疇が実践においてどのような文脈でどのように用いられてきたかということを分析していこう、というものです。ネーションなるものは、まさにこうした場においてのみ存在しているとも言えるでしょう。その意味で、A・D・スミスが大騒ぎしたことによってナショナリズム論の主要な論点となってしまった近代の産物か否かというあまり有益でない議論とはお別れして、よりネーションの現場に近づく、よく考えれば当たり前のスタート地点に立たせてくれるのが本書だといえます。
16. 小熊英二『単一民族神話の起源-〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社、1995年.
言わずと知れた名著で、著者の修士論文がもとになったものですが、日本のナショナリズムだけでなく、ナショナリズム全般に対して大きな示唆をもたらす文献です。日本のナショナリズムの特質を描いた研究書(もちろん、近代日本思想に関する文献は当然ながら非常に多く、それも広義にはナショナリズムにかかわるわけですが)は日本語でも意外と少ないのですが、本書は境界が可変的であるという意味で緩やかであるという包摂的な側面と、その中で言外の階梯を保持するという側面を持つ日本のナショナリズムの特質を描き出しています。また、良かれと思って生み出された論理がその文脈を離れていわば悪用されていく流れを描いている点は思想と社会のかかわりを考える上でも非常に示唆に富みます。続編として『〈日本人〉の境界』『〈民主〉と〈愛国〉』が同じ出版社から出ています。
17. Jonathan Eastwood, "Positivism and Nationalism in 19th Century France and Mexico," Journal of Historical Sociology, 17(4), 2004.
実証主義および社会学の創始者コントのナショナリズムと、その影響を受けたメキシコの19世紀後半のナショナリズムに関するものです。一般にナショナリズムは非合理な思想ないし衝動と考えられることが多く、個人主義的な色合いも強く見える実証主義とは対極にあるように思われているのではないでしょうか。しかし、著者はその実証主義の創始者コントがフランスをかなり背負っていたこと、その方向を占う上で実証主義的な方法を援用していたことを提示しています。後半ではメキシコにおいて見られた同様の現象について論じられています。社会学とナショナリズム研究の融合としても非常に好感の持てる論文です。
18. Alexander Maxwell, "Multiple Nationalism: National Concepts in Nineteenth-Century Hungary and Benedict Anderson's ''Imagined Communities'," Nationalism and Ethnic Politics, 11(3)2005.
19世紀のオーストリア・ハンガリー帝国下のスロヴァキア人の「多重ナショナリズム」についてです。彼らが、「政治的ネーション」としてのハンガリーと、「文化的(言語的)ネーション」としてのスラヴ人の両方に忠誠を示しており、両者とスロヴァキア人であることに矛盾が必ずしも感じられていなかったということを論じています。したがって、ナショナリズムを国家志向から判断すべきではないと著者は主張しています。こうした帝国空間に合致するナショナリズムについての研究は近年動き出したばかりといってよいでしょう。ただ、アンダーソン理論は、副題に挙げるほど本論文で効いているようには思えないのですが。
19. 佐藤成基「ナショナリズムのダイナミックス―ドイツと日本の「ネーション」概念の形成と変容をめぐって」『社会学評論』51(1).
「ネーション」をが、それにかかわる諸事情がせめぎあう中で形成され、変容していくものとして捉えつつ、そうした過程の中でのドイツと日本におけるネーション系の概念の比較を行った論文です。例えば、近代日本がドイツから多くを学んだこと、第2次大戦時における同盟関係と、双方ともファシズム体制を築いたという歴史における一般的な位置づけ、血統主義を基本とするネーション系の概念などにより、両者は同類項としてまとめられる傾向にあるのですが、本論文は、ドイツの「ネーション」においては「在外同胞」が鍵となるといった諸事情の相違を比較しつつ、ドイツの「ネーション」が国家や国民国家と区別されたエスニックな概念にかなり徹しているのに対して、日本においては、「ネーション」が国家に従属し、両者の区別が明確にされないという傾向があることが指摘されます。「在外同胞」の有無という点を考えると、確かに違う過程と結果が現れそうです。
20. Beatrice F. Manz, "Multi-Ethnic Empires and the Formulation of Identity," Ethnic and Racial Studies, 26(1), 2003.
ナショナリズムはヨーロッパ発の運動と捉えられることが多いです。そして、そのヨーロッパ・ナショナリズムはハプスブルク帝国におけるネーション概念に端を発しているといいます。しかし、文化や伝統、法制度や支配の正統性など、多くのことが領土を基盤としていた点でハプスブルク帝国は帝国の中ではむしろ例外だと著者は言います。歴史上のイスラーム帝国、モンゴル帝国、そしてロシア・ソ連帝国におけるエスニック集団の形成過程を概観しながら、領土に基盤を持つわけではないエスニック集団が、ヨーロッパ・ナショナリズムの影響を受ける以前から帝国の構成単位として存在していたことを強調し、ヨーロッパ中心的なナショナリズム形成史観に一石を投じています。なお、著者は中央アジアの専門家です。
21. Sinisa Malesevic, "'Divine Ethnies'' and 'Sacred Nations': Anthony D. Smith and the Neo-Durkhemian Theory of Nationalism," Nationalism and Ethnic Politics, 10(4), 2004, 561-593.
Nations and Nationalism誌の編集長として、いまだ似たような内容の本を出し続けているアントニー・D・スミスのナショナリズム論の認識論的な基盤をデュルケム的な文脈で解釈した論考です。スミスにとってネーションはデュルケムが社会と名付け、原初的な宗教にその真骨頂を見出した聖なる領域と重なるものとしてとらえられている、といった議論は、最近日本語にも訳されたスミスのChosen People: Sacred Sources of National Identity (2003)に鑑みても合点がいきます。
22. カール・レンナー,「国家と民族」(上・下)太田仁樹訳『岡山大学経済学会雑誌』32(2, 3),2000(原著ウィーン:1899).
こちらは二次文献というより一次資料として取り上げられることの多い論文ですが、二次文献としてもいろいろと触発される部分は多いです。というか、現在のエスニシティ・ナショナリズム論でこのような論じ方をする議論というのは、少なくとも学界においてはあまり見ないので、ある意味新鮮です。「ルドルフ・シュプリンガー」名で20世紀初頭のロシア・東欧で知られたオーストリアの民族理論家です。政治家であり法律家でもあります。属人原則を掲げたものとして有名で、この点ではオットー・バウアーの方が知られていますが、レンナーが元祖です。この点やバウアーとの相違については、訳者の太田仁樹氏の諸論文をご参照ください(例えば太田仁樹「カール・レンナーの民族的自治論―『諸民族の自決権』を中心に」『経済学史学会年報』第46号(2004))。単に、民族は領土ではなく人単位で見るべし、と説教を垂れているのではなく、歴史的にいろいろな事例を紹介しつつ議論している点が、そしてその議論の仕方が今日ではあまり見られないものであるという点が興味深いところです。例えば、古代の諸帝国においては、基本的に社会的集団の帰属は属人原理によっていたのが、中世においては領地単位になったという説明は、なかなか面白いです(つまり、進化論的に属人主義が説かれるのではなく、むしろ、属地主義が歴史的に一過的なものであるにすぎないとして退けられるわけです)。なお、バウアーを含めたオーストリア民族理論は、近年、多文化主義理論の文脈で一部で脚光を浴びています。
23. 丸山敬一編『民族問題―現代のアポリア』ナカニシヤ出版、1997.
22に関連して、マルクス主義系、とりわけオーストリア・マルクス主義系の民族理論家に関する論集です。そこと関連の深いレーニンやスターリンの民族観についての章もあります。丸山氏を中心としたグループは、かなり手堅くこのあたりの議論を紹介しており、容易にオーストリア民族理論のエッセンスに触れることができます。一昔前までは、マルクス主義関連は党派的な匂いが伴ないがちな分野であり、本書の諸論文においても、それゆえに不幸な解釈をされた理論、といった紹介のされ方も目につき(というか、同時代的に民族理論は党派的な攻撃にさらされやすい性質のもので、例えばレーニンやスターリンによる一面的な解釈というのは十分にあり得たわけです)、いちいちそのように書かなければならない必然性は現在の若手にはあまりピンと来ないと思いますが、そういう実情があったのだということが透けて見える点、これはこれで興味深くもあります。なお、より歴史学的にオーストリア=ハンガリー帝国の民族問題や帝国の統合問題を包括的に詳説したものとしては、Robert A. Kann, The Multinational Empire: Natoinalism and National Reform in the Habsburg Monarchy, New York: Octagon Books, 1983の2巻本があります。
24. 酒井直樹『死産される日本語・日本人―「日本」の歴史-地政的位置』新曜社、1996.
独善的な印象を持つ人も少なくないであろう文章で、ある種のフィルターが全体にかかっているような感じもするのですが、それらを差し引いても重要な問題を提起している議論だと思います。第1章の特殊主義と普遍主義の問題は、近代という時代に湧き上がった「半開」意識を持った人々のナショナリズムや、それがなぜか帝国主義と見分けがつかなくなっていくという問題を考えるうえで重要な視点だと思います。
25. Mark Mazower, No Enchanted Palace: The End of Empires and the Ideological Origins of the United Nations, Princeton: Princeton University Press, 2009.
ナショナリズムの流行を考えるうえで、思想としての国際連盟や国際連合という問題は結構重要です。極論をすれば、コストが低い(道徳的コードに引っかかりにくかったり、それもあって実際に抵抗に遭いにくかったり、あるいは、負の部分を背負い込む必要がなかったり)帝国主義的管理体制といえなくもないわけです。たとえば、イギリスのコモンウェルスという思想と国際連盟が親和性を持っていたことや、難民問題の低コストでの解決を模索したこととのかかわりなど、なかなか黒い感じが漂っています。
26. Ayhan Akman, "Modernist Nationalism: Statism and National Identity in Turkey," Nationalities Papers, 32(1), 2004.
オスマン帝国末期~トルコ共和国を事例に、ナショナリズム論でよくあるcivic/ethnic二分法に対して、第三の範疇としてmodernist nationalismというものを提唱する論文です。トルコは、完全に植民地化されたわけではありませんが、西欧列強の脅威に置かれた、非西洋圏にあったわけですが、同様の位置づけの国々は、日本をはじめ、世界にいくつもありました。modernist nationalismは、エスニックな遺産を、むしろ意識的に切断してまで国家的枠組みを守ろうとする種類のナショナリズムです。市民の平等が筆頭に上がるいわゆる西欧先進国的なcivic nationalismとも違います。こうした種類のナショナリズムは、明治期の日本にも広く見られたといえるでしょう。
27. 酒井哲哉『近代日本の国際秩序論』岩波書店、2007.
近代のナショナリズムを考える際、その文脈となっている国際秩序観にまで目を配る必要があります。日本のナショナリズムも国際秩序観の変化と連動していました。また、戦前の日本において、「社会」という位相、ないし想像力が、現在では帝国主義的とされる、国境を容易に越える議論を促進したことも本書からは浮かび上がってきます。
28. 安丸良夫 『近代天皇像の形成』岩波現代文庫、2007[原著1992]
歴史学者による研究としては異例なほど社会学理論を応用した議論を展開する本で、興奮して線を引きまくったのをよく覚えています。ピーター・バーガーの『聖なる天蓋』や『現実の社会的構成』がその基軸となっており、民衆がいかにして日常世界から天皇制という抽象的なものに繋がっていったかが鮮やかに描かれています。
29. 吉野耕作『文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方』名古屋大学出版会、1999.
入門編でも本書の第一章を取り上げましたが、本編でもユニークな視点に立つ議論が展開されています。ナショナリズムの消費という観点から、企業人や教育者がどのように巷の日本人論を読んだのかをインタビューから分析しています。そこから出てくる重要な結論は、職業や個々人によってその消費の仕方が異なるということです。「『社会全体』のナショナリズムの存在を想定する〔従来の〕研究者の見方は、それ自体『日本人全体』をナショナルな『想像の共同体』と見るナショナリズムの思考法と親和的であると言えないだろうか」。
30. 小暮修三『アメリカ雑誌に映る〈日本人〉―オリエンタリズムへのメディア論的接近』青弓社、2008.
おおよそ一世紀にわたってNational Geographic誌などに登場してきたアメリカ版日本人論を分析した本です。むろん、そこにはオリエンタリズムと呼べる表象があるわけですが、本書が同様に強調するのは、それに、「セルフ・オリエンタリズム」という、日本人の側からの戦略的な表象が作用しているということです。序章で触れられている、アメリカ人に対して日本人を「演じる」著者の経験はそのことを端的に表しています。また、西洋の代表選手であるテクノロジーに関して、日本人が模倣の段階を超えて進化していったとき、日本人が精神を持たないロボットのような存在として描かれたりもしたという点も興味深い事実です。オリエンタリズムが単なる偏見なのではなく、欲望の関数であるゆえんです。
31. 朴一『〈在日〉という生き方―差異と平等のジレンマ』講談社選書メチェ、1999.
様々な著名在日コリアン(いわゆる「帰化」した人含む)の生き様に即して、人間や日本社会を逆照射した本です。韓国の名家に生まれ、エリートコースを進んで自民党政治家にまでなった新井将敬がひたすら「日本化」を求めた末に自害し、幼少期に差別と貧困に苦しんだ孫正義が、民族名にこだわりながら日本国籍を取得し、今日まで社会的に成功を収めているという事実は、一級の皮肉といえるかもしれません。
32. イマニュエル・ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(新版)岩波書店、1997.
世界労働市場における「制度としての人種主義」(労働者の階層化ときわめて不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー装置)を正当化するために「民族集団化」が生じるという重要な指摘が含まれている、エスニシティ論としても特筆されるべき本です。つまり、ある人間集団を「民族集団(ethnic group)」として捉えることでも例えば職業や経済的役割の階梯に「伝統」という名の外皮をかぶせて正当性を装わせることが可能になるというわけです。単純な話しでいえば、「外国人」であれば安い給与水準で構わないだろうと考えてしまう思考回路はここから派生しているともいえそうです。
33. Moritz Föllmer, "Was Nazism Collectivistic? Redefining the Individual in Berlin, 1930–1945,"Journal of Modern History 82(1), 61-100, 2010.
ナチズムといえば全体主義、つまりは集合主義、と考えがちですが、ある意味において個人主義の結果であった、とする興味深い論考です。もちろん西欧近代が理想として掲げた個人主義と同じものではありません。しかし、ナチスが個々人の機会の平等による自己実現のようなものを掲げていたことが、諸個人がナチスの構造のなかに取り込まれていった背景としてあったことが示唆されていると思います。ユダヤ人の商業は、機会の平等という観点から(多分に言いがかりなわけではありますが)、煙たがられた、という回路があったようです。また、悪に対しては、個人主義のネガを投影しがちな西側研究者の偏見がこれまでのナチス=集合主義像に寄与していることが冒頭で示唆されている点も刺激的です。
34. 中村雅子「アメリカ人であることと黒人であること―W・E・B・デュボイスの場合―」本田創造『アメリカ社会史の世界』三省堂、1989年.
デュボイスは、ハーバード大学から黒人で初めて博士号を取得し、公民権運動に尽力した人物です。彼は、黒人が白人のようになることを望まず、むしろ黒人としてアメリカ文化に貢献すること目指すべく、文化の民主主義を唱えました。こうしたブラック・アメリカンの「二重性」を鮮やかに示してくれる論考です。
35. Dubravka Stojanovic, "Unfinished Capital--Unfinished State: How the Modernization of Belgrade was Prevented, 1890-1914, Nationalities Papers 41(1), 2013.
セルビアの首都ベオグラードは都市計画の欠如のために近代都市としては今日でも大いに問題が残っていると著者はいいます。その原因はいくつかありますが、特に興味深いのが、次の諸点です。まずクランごとに分裂しており、また貧民を一掃するなど必ずしも有権者を味方に付けない大胆な都市計画が立てにくかったこと。これはよくありそうなことですが、さらに興味深いのが、セルビアナショナリストが、民族としての一体感を保つために、近代的な要素として伝統的な農民文化から大きくかい離する新たな要素を創り出す都市化にきわめて否定的だったこと、そして、大セルビア主義を諦められず、都市開発にお金を回さなかったこと、この二つの点です。ナショナリズムは近代的な大都市を作り上げるイメージがありますが、逆にナショナリズムゆえに都市の近代化が疎外されたというのはなかなか面白いです。